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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [20]




 目を閉じているのに、目の前に何かが見える。何か形のないものが、大きくうねりながらどこかへ向かっている。緑色の、おぞましい、不定形な魔物。
 どこへ行くのか?
 行き先は薄暗く、見通しは悪い。うねりは大きくなり、グルグルと渦を巻いている。重く暗く、音があるのか無いのかわからない世界の中で、何かが力強く渦を巻き、そうして――― またここに戻ってくる。
 戻ってくるんだ。
「知ってるよ」
 美鶴は瞳を開き、ぼんやりとしたまま虚ろに口も開いた。ツバサは突然の言葉に、目を点にする。
「え?」
「小窪智論って人、私知ってる」
 美鶴は、大きくうねる無限ループの存在を意識しながら、なかば無意識に口を開いていた。
「知ってるよ」
「え? マジ」
 再び肩を捕まれ、そこで美鶴はようやく我に返る。
 私、何言ってんだろう?
 自分の行動に呆然とする美鶴の瞳を覗き込むツバサ。
「マジで知ってるの?」
 いまさら嘘でしたでは通らない。仕方なく頷く美鶴に、ツバサは目を見開く。
「ホント? 知ってるって、会った事あるって事?」
「う、うん」
「いつ? どこで? また会える?」
「いつって」
 今さっき。と言おうとして、言葉を飲んだ。言えば、なぜ会っていたのかと問われるかもしれない。正直、その質問には答えたくない。
 美鶴は出しそうになった答えをどうにか押さえ込み、代わりに別の言葉で答える。
「会えるかどうかわからないけど、連絡なら取れる」
 智論と別れる時、携帯の番号を聞いた。何かあったら電話してね、と。
 連絡をする事などないと思っていた。まさかこんな事になるなんて。
 携帯をポケットから取り出す美鶴の手を、ツバサは縋るように見つめる。
 すごい偶然。アリエナイ。
 霧のかかった世界の向こうにぼんやりと存在するかのような手掛かり。それが突然目の前に現れようとしている。
 兄に会いたいと思っていた。だが、会えないと諦めている自分もいた。昔は反発していた兄だ。会ってどうする? 自問すると答えが出なかった。
 コウと里奈を目撃して、変わりきれていない自分を自覚して、いいや、どうせ自分なんてと放り投げようとしたけれど、でもやっぱり兄のようになりたいという思いは諦め切れなかった。それはたぶん、コウの事が好きだからだと思う。コウはきっと、投げやりな人間なんて、好きじゃない。
 でもどうすればいいのかわからなくなって、結局安績さんに言ってしまった。

「お兄ちゃんに会って、聞いてみたい事がある」

 そう口にした途端、物事が突然動いた。
 これは何? 偶然? それとも必然?
 私が会いたいと思ったから物事がどんどん動いていくの? それとも、神様か何かが本当に居て、彼らが気紛(きまぐ)れで悪戯でもしているの?
 わからない。本当に偶然すぎて、神様か悪戯好きの小悪魔でも存在するんじゃないかと思えてくる。
 興奮に胸が(たか)ぶるツバサの目の前で、美鶴がゆっくりと携帯のボタンを押した。そうして、画面を見せる。
「ほら番号」
 そこには11桁の番号と、こくぼちさとの六文字。
 本当に、知ってるんだ。
 なぜ名前がひらがななのかは敢えて聞かず、ゴクリと生唾を飲み込む。震える声を喉から出す。
「連絡って、すぐ取れる?」
 美鶴は一瞬躊躇し、だがすぐに頷いた。
 別に日を改める事もないよな。そもそも、こういう問題はさっさと片付けてしまった方が良い。
 美鶴はそのまま無言で通話ボタンを押した。しばらくしてコールが鳴り出す。
 電話するなんて初めてなのに、大した緊張もしない。霞流の時はあんなに緊張したのに、今は何とも思わない。
 自分の行動に冷めた感情を湧き上がらせながら待つこと数秒。智論は意外にも早く出た。
「もしもし、美鶴ちゃん?」
「あ、はい」
 答えながら、背後の雑音に眉を潜める。
「あの、すみません、突然」
「いいのよ」
「今、大丈夫ですか?」
 必死に携帯を耳に押し当てながら相手の声を聞こうとする。
 風か? ビュービューだかゴーゴーだか表現しずらいような音が、智論の声を掻き消そうとする。
 こちらはほとんど風などない。
 どこにいるんだろう?
 そんな意味も込めて伝えた質問に、智論はあまりにも的確に返答してくる。
「大丈夫よ。駅のホームだからちょっとうるさくてごめんね。今、通過電車が走ってて」
 あ、なるほど。騒音は電車の音だったのか。自宅にでも帰る途中なのかな?
 納得する美鶴。
「それで、何かしら? 私に用? 何か忘れ物でも?」
「あ、いえ、忘れ物じゃなくって」
 そこで美鶴はチラリとツバサを見上げる。両手をグーにして胸元で組むツバサ。
「あの、智論さんに会いたいって人がいて」
「私に?」
 ようやく電車が通過したのだろうか。いくぶん静かになった電話の向こうから、少し(いぶか)しむような声。
「私に? 誰かしら?」
「あっと、私と同じ唐渓に通ってて」
 そこで美鶴は説明を断念する。こういうのは、さっさと当人同士で話した方が早い。
「今、代わります」
 そう言って、ズイッと携帯をツバサへ突き出す。一瞬戸惑い、ゆるゆると携帯を受け取り、だが意を決したように耳に当てた。
「あの、小窪さん、ですか?」
「えぇ そうだけど」
 誰だかわからないのだ。警戒するのは当たり前だろう。トーンの落ちた相手の声に、ツバサは小さく息を吸った。
「あの、私、涼木(すずき)って言います」
 そう口を開くと、途端に言葉が溢れてきた。







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